創業1886年

文明開化まもない1886年。
当社の前身「弘報堂」は、
福澤諭吉の意を受けて創業。
業界のパイオニアとして
日本の広告を牽引した明治時代。

当社の誕生を語るうえで欠かせないのが福澤諭吉の存在です。
江戸時代の終焉とともに、西洋文化が一気に入りこんできた明治初頭。
日本という国そのものが大きく変わる中、メディアも江戸時代のかわら版などから大きく脱皮し、マスメディアとしての新聞が続々と生まれていきます。
そのうちの一紙、福澤諭吉によって1882年に創刊されたのが時事新報でした。
海外経験を通して日本にも広告の必要性を痛感していた福澤は、翌年の1883年「商人に告るの文」と題した一文を自ら執筆し、時事新報紙上に発表。
「学問のすゝめ」ならぬ「広告のすゝめ」キャンペーンを展開したのです。

当時、斬新ともいえる広告必要論を主張していた福澤諭吉。
彼の薫陶を受けた弟子の中にあって、時事新報社に小使監督として勤務していたのが江藤直純です。
実直な働きぶりで福澤から厚い信頼を得ていた江藤は、福澤が唱える広告論に感激し、その意志を実現するために福澤の命を受ける形で一念発起。
1886年、京橋区滝山町(現・銀座6丁目)に日本廣告社の前身「弘報堂」を創業しました。
福澤が激励をこめて“広告取次業 弘報堂”の額を書き与え、同年11月3日に広告主や知人を招き命名式を開催。
日本初となる広告会社が生まれた瞬間でした。
現在からさかのぼること120余年。
福澤と江藤の絆によって、当社は記念すべき第一歩を刻んだのです。

弘報堂創業時の時事新報社

時事新報 創刊号(慶應義塾図書館蔵)
1882年3月1日創刊。この時は全4ページで1面の社説ほか、各種雑報、海外ニュースや経済、広告などで紙面が構成されていました。大きさは今日の日刊新聞とほぼ同じ。1部3銭で、月極65銭。広告料金は1行8銭でした。

当時の弘報堂新社屋とその内部
1904年に京橋区元数寄屋町2丁目(現・銀座5丁目のソニービル付近)に新築された弘報堂の自社社屋。

広告代理店の草分けとして
業界の発展に寄与。

江藤直純は1884年に時事新報広告取次を開始したものの、すぐには多くの広告主を開拓することはできませんでした。しかし、2年後の弘報堂と名乗る頃には、新聞の隆盛とともに軌道にのっていきます。
広告代理業が経営として成り立っていくことが弘報堂により示されたため、業界の2番手を目指して後発の広告会社が数多く参入してきます。
1888年に廣告社、89年に豊國社、金蘭社、90年に正路喜社、広目屋。さらに92年の帝国通信社をはじめ、90年代後半の博報堂、1901年の電通など、まさに広告会社の創業ラッシュともいえる時代でした。
この頃、弘報堂は東京の有力広告会社筆頭としての揺るぎない地位を確立。1897年には、不当競争防止と広告料金不払い広告主対策を目的に、弘報堂をはじめとする有力8社が「東京新聞広告取次同盟会」を結成。業界内での発言力をいちだんと高めていきます。

江藤直純

広告大福帳に残されていた
当時の貴重な資料。

当時の弘報堂の売上や規模などを知るための資料は、関東大震災、第二次世界大戦により、その多くが失われ当社にもあまり残っていません。
しかし、1904年当時の弘報堂の売上に関する記録が広告大福帳の1月号に残されています。これは東京地区の主な広告会社の1カ月取扱高をまとめたもので、弘報堂は月額1万円で業界トップ、2位が電通で月額5,000円~6,000円となっています。
弘報堂は決算広告も数多く取り扱っていたため、決算が発表される月は2万円と注釈がつけられていたので年間売上は14~15万円程度だったのではないかと推測されます。

弘報堂の自社広告
新聞広告で自社の広告取次を宣伝し、広告主を募集していました。この当時、社は京橋区尾張町(現・銀座5丁目)の自由新聞社跡に移転しています。

黎明期1920年~

新聞広告の急伸、相次ぐ新媒体の登場。
さらなる繁栄へ向けて歩んだ
大正、昭和初期。

1925年に日本のラジオ放送が始まりますが、商業放送ではなかったためCMはありませんでした。しかし1922年、東京市内電車乗車券に広告掲載が始まり、25年には東京市バスに車体広告が登場。さらに27年には浅草~上野間で開業した地下鉄に車内・駅広告がお目見えするなど、新聞・雑誌以外の屋外・交通広告といった媒体も活況を呈していきます。この当時のユニークな広告として、弘報堂の「生きた広告」の写真が残されています。これは、お客様のネームとブランド名を胸に掲げた海水着を弘報堂社員が着込んで街や海岸を練り歩きながら宣伝をするというもので、このキャンペーンは1922年夏に2回行われています。

新媒体が続々登場。
弘報堂は「生きた広告」も展開。

弘報堂の「生きた広告」(鎌倉にて)
弘報堂の社員20数人が、当時のお客様であった株式会社日本蓄音器商会(現・日本コロムビア株式会社)のレコードブランド「NIPPONOPHONE(ニッポノホン)」の宣伝用海水着を身にまとい、海水浴地で自ら広告塔となってキャンペーン活動を繰り広げました。大森の街を練り歩き泳いだのが1回目。2回目は鎌倉で、ブランド名の入った海水着とともに、ワシのロゴマークを白く染め抜いた真紅の旗を振りかざして街の中を歩きまわり、由比ケ浜に旗を押し立て、相撲をとったり、跳ねまわったりのキャンペーン活動を行いました。当時、ニッポノホンは、歌舞伎俳優吹込みのレコードがヒットしていました。

弘報堂をはじめとする業界各社が
株式会社に改組。

大正から昭和初期にかけて、広告業界は新しい時代へと突き進んでいきます。新聞広告量は大正時代の約14年間で約7倍へ急伸。雑誌は、第一次世界大戦後の株式ブームで様々な経済誌が誕生して広告面を埋め尽くしました。また、婦人運動の高まりなどとともに次々と創刊されたのが婦人雑誌で、これらの誌面では化粧品や薬品を中心とした広告がブームになりました。
広告業界では新興勢力が乱立して競争が激化したため、弘報堂は1914年、電通、博報堂、正路喜社、帝通の大手5社で協同会を結成し、地盤固めをはかっていきます。結成メンバーの顔ぶれを見ると、明治時代の大手が衰退するなど、業界の勢力図が変わっていることがうかがえます。しかし、弘報堂は引き続き有力広告会社としての地位を確保していました。
また、弘報堂が1920年に株式会社に改組すると、すでに株式会社であった電通をのぞく他の広告会社も右にならうように順次、株式会社に改組。株式会社弘報堂の初代社長には江藤直純の子息・江藤甚三郎が就任します。業界内外に誇示する催しとなりました。

新聞を彩る漫画にも力を注いだ弘報堂。
1920年、弘報堂は社内に「新日本通信社」を設立。政治や社会問題を風刺した起承転結の漫画を各新聞社に供給することを目的に業務の拡大をはかりました。社長に江藤甚三郎、役員に日本初の職業漫画家といわれる時事新報社の北澤楽天、社員には当時まったくの無名だった麻生豊と河盛久夫という2人の漫画家を配置します。
北澤楽天は、個性的なキャラクターを生み出すなど漫画界をリードし、当時「ポンチ絵」「おどけ絵」と呼ばれていた漫画の評価を社会的に高めた人物でした。
彼の教えのもと、その後、麻生豊は報知新聞夕刊の連載漫画「ノンキナトウサン」で一世を風靡し、河盛久夫は時事新報の日曜漫画「ハーさん フーさん 小母さん」で好評を博するなど、漫画界に2人の新星を送り出すこととなりました。

北澤楽天の漫画「化け込み」

第二の創業1940年~

「弘報堂」から「日本廣告社」へ。
新しい社名でスタートをきった
戦後の復興期。

戦時下の統制で合併、
社名を「日本廣告社」に変更。

昭和初期を経て日本が参戦した第二次世界大戦下、弘報堂は創業以来の大きな節目を迎えることになりました。1943年、商工省物価局から広告取次業整備要綱が発表され、本格的な企業整備がはじまったからです。これにより1944年、日本全国で186社を数えた広告会社は東京地区6社、大阪地区4社、名古屋・九州地区各1社の計12社に統合・再編されることになりました。
業界のパイオニアであった弘報堂は、統合にあたっては自社と同じように伝統ある歴史を重ねていた豊國通信社、告天社、廣告社と合併(1947年、廣告社は分離独立)。同年11月、株式会社日本廣告社が誕生しました。新生日本廣告社の初代社長には、弘報堂社長であった高田豊爾が就任。合併時の資本金は40万円、売上高は5,266千円、従業員は約120名で、業界3位の地位につけます。

当社の谷口武雄社長が
日本新聞広告業者協会の初代役員に。

戦後、広告業界は統合・再編された12社でスタートし、これらの社が1945年9月に「日本新聞廣告同業組合」を結成します。ところが、1947年に独占禁止法が施行され、戦時統制化で吸収・合併されていた広告会社の復活や新設が続出。これらの会社が1948年「全国新聞広告同業組合」を結成しますが、1950年には、この2つの団体が1つになり「日本新聞広告業者協会」(現・日本広告業協会)が誕生します。
主な有力会社13社のメンバーが協会役員を務めることになり、当時の日本廣告社社長・谷口武雄もその重要な役員の一人として会の運営・発展に尽力します。
また、戦後は言論報道の自由が復活し、新聞の復刊、新興新聞の創刊が相次ぎ、雑誌も終戦時1945年996誌から1948年には7,249誌と激増。自由競争になった広告業の売上高も急伸し、日本の広告費は49年に前年の3.2倍という空前の伸びを記録しました。

千代田区・三宅坂 「平和の群像」

当社創業者、江藤直純が
第一回「広告功労者顕彰」受賞。

日本初の広告会社「弘報堂」開設の業績を高く評価され、江藤直純は1950年、電通50周年事業として行われたマスコミ功労者顕彰の第一回「広告功労者顕彰」を受賞しました。千代田区・三宅坂に「平和の群像」が建てられ、その銘版には広告界への功績を末永く讃えるために、江藤直純をはじめとする17名の名が刻み込まれ、その偉業を後世に伝えています。
また、マスコミ功労者顕彰の「新聞人顕彰」の第一回功労者として、福澤諭吉が顕彰され、東京・千鳥ケ淵の「自由の群像」にその名が刻まれています。

メディア新時代1950年~

テレビの出現、そして高度成長期へ。
サービスの進化&多様化で
新時代の広告を創造。

日本初のテレビドラマ収録風景

かつてない電波時代が幕を開けた
1950年代

戦後から驚異的な勢いで復興を遂げてきた日本。経済白書で1955年は「もはや戦後は終わった」と宣言された時代でもあったように、1950年代は高度成長期への助走がはじまった時期ともいえるでしょう。
この当時、広告界にも2つの大きなトピックが待ち受けていました。その1つは51年民放ラジオ放送のスタート。もう1つは53年民放テレビの放送開始です。まったく新しい媒体であったため、有力広告代理店と放送局で構成された研究会が立ち上げられ、当社もメンバーの一員として参画。CM出稿のルールづくりをはじめ、電波媒体における広告のさまざまな取り決めが作成され、当社もその基盤づくりに貢献しました。
同時に、社内においても1953年いち早くラジオ・テレビ部門を創設し、電波媒体参入への体制づくりを確立。化粧品メーカーから製薬会社、行政機関をはじめ多様なお客様のテレビ・ラジオCMおよび番組制作を手がけていくようになりました。
こうした電波媒体の登場により、日本の広告費は1955年から59年までの5年間で609億円から1,456億円へと2.4倍に伸張。とりわけテレビの躍進が目立ち、57年には雑誌を、59年にはラジオを抜いて新聞に次ぐ媒体に急成長を遂げながら、1960年代の高度成長期へ突入していきます。

日本廣告社オリジナルのアドレスブック

地域マーケティングの強化で
全国各地に支社増設。

1950年代は、日本広告界にマーケティングが導入された時代でもありました。マーケティングに応じた広告活動が多様化する中、当社もニーズに応えた新しい高価値サービスを提供するため企画調査部を新設。とりわけ銀行などの金融機関を数多くお客様に抱えていた当社では、その新聞出稿調査などから本格的なサービスに取り組みはじめました。
また有力お客様である東芝の家電製品においては、綿密な消費者調査をはじめ、地域マーケティングの視点から、全国各地できめ細やかな地元密着型の広告戦略を展開。消費者に有益な情報を発信するコミュニケーション活動をさまざまな媒体を駆使して活発化させていきます。
このように全国を対象としたエージェンシー・サービスをよりレベルアップするため、50年代~60代にかけて各地に支社や出張所などを順次増設。お客様との緊密な連携をいっそうはかりながら、その拠点づくりを一気に加速させていきました。

広告成熟の時代1970年~

業界初のマルチプル広告をはじめ、
広告界にもホットな話題を提供した
昭和後期。

本社が入居していた弥生ビル

業界に先駆けてチャレンジした
2つのプロジェクト。

1960年代の高度成長期を経て経済大国の地位を築き上げた日本。1970年代になるとオイルショックなどの苦境を体験しながらも、ゆるやかな安定成長の時代へと入っていきます。広告業界も、こうした経済の流れの中で苦難の時期もありましたが、広告の手法・戦略の進化など、さまざまな要素があいまって総広告費を伸ばし続けました。
当社でも、プレミアムキャンペーンや大型広告キャンペーンが目立ったこの当時、業界で初めてとなる完全マルチプル広告(お客様・東芝)を毎日新聞紙上で実現します。突き出しや記事中などの小さなスペースまでをすべて確保するため、このプロジェクトは掲載日の4カ月以上も前から始動。掲載時には予想を上回るインパクトをもたらし、業界内外から大きな反響をいただきました。
また1979年には、若手社員の早朝会議から生まれたプロジェクトとして、毎日新聞社と共同で中国向けの情報誌「日本経済」を発刊。記事は毎日新聞社、広告面は当社が担当し、中国という巨大なマーケットを開拓することを狙った先駆性でも注目を浴びました。中国政府機関などに置いて自由に読んでもらえる無料の季刊誌とし、今日でこそ当たり前のフリーペーパースタイルを採用していました。

権威ある吉田秀雄記念賞、
紫綬褒章を受賞

JAAA(一般社団法人日本広告業協会)における活動の一環として、1966年から実施されている歴史ある吉田秀雄記念賞。当社では1969年(昭和44年)に当時の小平正雄取締役が広告業界51年間の努力を讃えられ第4回個人賞に輝きました。 続けて1977年(昭和52年)には、谷口武雄相談役が多年にわたる広告業界への功績によって第12回個人賞、2001年(平成13年)には高山正行会長が第36回個人賞を受賞しています。
また、当社第8代社長となる当時の鈴木輝夫取締役媒体部長が、1992年の吉田秀雄記念賞グループ賞を受賞。谷口武雄相談役は、吉田秀雄記念賞個人賞を受けた翌1978年に栄誉ある紫綬褒章も受賞するなど、当社を率いてきた先人達の功績が高く評価されています。

  • 小平正雄
  • 谷口武雄
  • 高山正行
  • 鈴木輝夫

そして現在

業界のパイオニアとして、
これからも広告を牽引し続けます。

高効率かつ効果的な
トータルサービスでお客様に貢献。

情報通信がドラスチックに進化し続ける今日、私たちの社会を取り巻くメディアはいちだんと複雑化・多様化しています。消費者の志向や価値観も細分化され、クロスメディアはもちろん、ターゲット別の情報伝達環境を最適化するコミュニケーションデザインがますます求められる時代になったといえるでしょう。いま街や駅、生活空間には多彩なメディアがあふれています。これまでのビルボードだけでなく街頭ビジョンが増えたり、デジタルサイネージが現れたり、ラッピングバスが街のストリートを賑わせたり。なかでもスマートフォンはインタラクティブメディアとしても、今後いっそうの活用が見込まれます。当社においても、インターネット関連業務の強化をはじめ、変貌するメディアに呼応した体制づくりをフレキシブルに推進。あらゆるセクションと緊密な連動をはかりながら、お客様が抱えるさまざまな課題にこれまで以上にお応えするトータルソリューションのご提供を目指しています。

2086年~

創業100年超の蓄積を、
これからの100年へ。
さらなる進化と深化で、
コミュニケーションの
真価を磨き続けます。